今日のタヒチ人は、祖先であるマオリから、豊かで表現力に富んだ文化を受け継いできました。マオリこそ、タヒチ人の脈動の源流です。そこは神々と戦士と人間の命が交差する色彩豊かな伝説の世界でした。島での暮らしの中で日常的な感動が音楽、踊り、芸術を生みだし、神々に奉納するスポーツとしてやり投げが始まり、王たちが波乗りに興じ、男たちが純粋な見世物として、カヌーレースや石を持ち上げる競技で腕力を競い合っていました。
強さ、力、影響、卓越、偉大、主権、全能、威信、支配、天才、権威、優位、高潔、名声、存在、優美、美… マナを形容する言葉は無数にあります。
こうした言葉は、ある特定の状況における視点からマナをとらえています。マナとは神秘的で根源的な概念であり、絶対的真実です。有形・無形のどちらの側面も持っていますが、かすかに感じることができる程度のものです。不思議で、自然で、謎に満ちています。
マナはあらゆる次元において万物を生かし、活気づけ、育て、高める超越的な存在です。同時にマナは、生きとし生けるものすべてに絶滅、荒廃、破壊をもたらすこともできます。
マナは魅惑的で、社会に浸透し、人々を魅了しますが、同時に恐ろしく、危険であり、激しく、破滅的です。
それは生と死、2つの源です。
マナはこの宇宙の力の源であり、ポリネシア世界の中心であり、万物に生命と形を与え、そしてこの世界をたたえるポリネシアやマオリの人々を創造した存在・文化・精神にかかわる価値です。
マナの「マ」は純粋を意味します。マオリの世界には、あらゆる事物の生命、謙虚、敬意、尊厳、愛、共有、善良、美、平和などの要素が調和して溶け込んでおり、純粋とはこうした要素から生まれます。
マナの「ナ」(または「ナア」)は知を意味します。この知は、経験や祖先から得た知識、人とその周辺環境の切っても切れない関係から身に付く一般常識、そして信仰からもたらされるものです。ここでいう信仰とは、神を信じること、普遍的なマナを探し求める精神的、文化的、世俗的な営みを通して到達できる恩恵を信じること、そして、来世ではより賢く、より純粋に、より力強く生まれ変われるという約束を信じることです。
マナは純粋で賢明な人の心に宿ります。
タトゥーの起源は、タヒチの島々に伝わる「タタウ」です。その模様には意味があり、それはタヒチ人の個人史を物語っています。身体に描かれるひとつひとつの線を通じて、過去のマオリが現在と将来のマナにつながるとされます。タタウの神「トフ」は、海のすべての魚に現在の色と模様を与えたとされており、このトフの存在が、タタウそれぞれに意味と生命を与え、天国と地上を結びつけています。ポリネシアでは、タトゥーは美しさの象徴であると同時に、かつては一人前であることの証でもあり、生活で重要な役割を果たしていました。
タタウの起源については多くの伝説がありますが、すべてに共通しているのは、それが神から人へ授けられたということです。タヒチの島々のある伝説には、原初のタタウが、ポリネシア世界の万物の創造主である最高神タアロアの息子たちに施されるくだりがあります。この息子たちがほかの人々にタタウを教え、それが広まったとされています。そのためタアロアの2人の息子、マタマタとツライポも、タトゥーの守護神になりました。
タトゥーの起源ははっきりとはわかっていませんが、マオリ文明の初期にさかのぼることは確かです。紀元前2世紀に、東南アジアから移民が次々に押し寄せ、最初はポリネシアの東の島々に、次いで西の島々に定住し始めたとき、おそらくこれらの人々の間にすでにタトゥーが存在していたと考えられます。この慣習は「ポリネシアン・トライアングル」と呼ばれる、今日のタヒチ、ニュージーランド、ハワイ、サモア、イースター島、クック諸島に囲まれた地域全体に存在していたようです。オーストラル諸島の南部とツアモツ諸島の東部を除くフランス領ポリネシア全域で、固有の形態のタトゥーが広く行われていました。特にマルケサス諸島では、そのモチーフの豊富さや複雑さの観点から、タトゥーがアートとしての頂点を極めたことが感じられます。
ヨーロッパの影響を受ける前のポリネシア社会では、タトゥーは住んでいる場所、部族、家系、社会的地位などを示すことがあり、社会生活で重要な意味を持っていました。また成人や結婚など、重要な社会的儀式をすでに終えていることを表す場合もありました。あるいは戦場での勇敢な行動や狩りや漁の腕前など、その人の人生での偉業を示すこともありました。もちろん単なる装飾ということもあったでしょう。タトゥーの目的はかなり広範囲にわたっていました。
人類学者アンヌ・ラヴォンドはソシエテ諸島のタトゥーについて次のように語っています。「タトゥーを彫ることは強制されてはいないが、タトゥーが身体のどこにもないというのも、タヒチ人にとって受け入れがたいことであった」。
タトゥーは3種類に区別されます。1つは祭司やアリイ(支配者階級)が彫ることのできる神のためのタトゥーで、これらは世襲であり、子孫へ引き継がれました。フイ・アリイという種類のタトゥーは、男女を問わず首長だけが彫ることができました。フイ・トア、フイ・ラアティラや、イアトアイ、マナフネという種類のタトゥーは、戦いの指導者、戦士、踊り手、舟の漕ぎ手などが彫るものでした。
タトゥーの根本的な特性の1つは、その神聖さでした。神から受け継いだと信じられているタトゥーには、超自然的な力が宿っていました。タトゥーのモチーフの中には、人間がマナを失わないよう守るとされたものがあります。それらは身体の健康や精神の安定を司り、多産を祈り、悪い影響から人間を守る崇高で神聖な本質を表していました。
タトゥーは現世を超えた存在でもあります。タトゥーは身体に永遠に残るため「死後、先祖である神話の国ハワイキで神々の前に還ったとき、肌に彫られた変わることのない印によって、その人の出自、地位、勇敢さがわかると考えられている」とドイツの民俗学者、カール・フォン・デン・シュタイネンは説明しています。シュタイネンは、1897年から1898年にかけて、タトゥーをはじめ、マルケサス諸島の島民のさまざまな形式の芸術的表現を詳しく分析しています。
人々は、住み着いた島ごとに固有のデザインとモチーフを発展させました。マルケサス諸島の言語で、タトゥーは「パツ・ティキ」と呼ばれ、「イメージを刻印する」といった意味です。この諸島では、顔も含め身体全体をタトゥーで覆う慣習がありました。一方、リーワード諸島では、決して顔にタトゥーを施すことはありませんでした。残念なことに、モチーフやデザインの意味は、時の流れとともに忘れ去られ、ほとんどがわかっていません。
伝統的なタトゥーの道具は、骨、べっ甲、真珠母貝から作ったギザギザの歯の付いた小さなクシを木製の取手に固定したものです。ティアイリ(キャンドルナッツまたはククイノキ)の木炭を油や水で薄めたインクに、ギザギザの歯を浸します。歯を肌に当て、取手を木片で叩くことで、皮膚を傷つけ、インクを染み込ませます。このように伝統的な道具でタトゥーを彫ることは、大きな苦痛を伴う上に、それは数日、数週間、数カ月、場合によっては数年もかかりました。そのため、通過儀礼としてのタトゥーの重要性がいっそう高まったのです。
特にこうした繊細な施術をとりしきる祭司を兼ねる彫師は、ソシエテ諸島では「タフア・タタウ」、マルケサス諸島では「ツフカ・パツ・ティキ」と呼ばれ、伝統社会で多くの尊敬を集め、多大な報酬を得ていました。この地位は、多くの場合、父から子へと引き継がれました。
カトリックとプロテスタントの両派の宣教師は、18世紀末にポリネシア諸島に定住するとまもなく、タトゥーの慣習を禁止しようと動き始めます。ポマレ王朝の2代目ポマレ2世は、1812年にカトリックに改宗し、1819年にタトゥー禁止令を含むポマレ法を制定します。この法はタトゥーについて「古代の悪習の1つ」であり、「完全に廃止すべき」と記しています。キリスト教化された新しい社会で、ポリネシアの人々は全身に衣服を着用しなければならなくなり、タトゥーの存在意義自体がほとんど失われていったのです。こうして、タトゥーのモチーフの大半と、それを彫る技術自体が、永久に失われてしまいました。
1980年代初めに、この民間の風習が見直され、新しくなり、タタウは再びポリネシア社会での重要な役割を取り戻します。もちろん、伝統社会では不可欠とされた神聖さや社会的地位を表す役割は、かなり薄れてしまいました。タトゥーを彫ることは、ポリネシア人としてのアイデンティティーを取り戻そうとする決意の表れであり、おしゃれとしての意味合いも含まれています。現在、ポリネシアの若者の多くがタトゥーをしています。
タトゥーのモチーフの本来の意味は、多くが完全に失われてしまいました。けれど、ポリネシア人の彫師はそれを再発見しようと調査と研究を重ねながら、現在3つの側面からこの芸術の発展に努めています。1つは伝統的モチーフの復興、2つめは装飾性だけを追求したモチーフの考案(イルカやマンタなど)、そして3つめとしては、一部の彫師が、伝統に直接着想を得ながらも、まったく新しいモチーフの創作に取り組んでいます。
現在、フランス領ポリネシアの主要な有人島のほぼすべてに、タトゥーイスト(彫師)がいます。彼らの評判の高さとポリネシアのタタウの美しさのために各地から人々が訪れます。またパリ、ロンドン、ニューヨークなど、世界の主要都市でその技術を披露するポリネシア人のタトゥーイストもいます。ポリネシアのタトゥーは、その伝統的な起源と、ファッショナブルで異国情緒のある美しさによって、国際的に高い評価を得ています。
宣教師はタヒチを訪れたとき、現地の音楽や踊りにみられる生命をたたえる力強く官能的な音や動きを抑圧しようとしました。ダンスやリズムを通して、タヒチの人々は、マナの声を聞こうとします。踊りとともに、マナは海や丘から降臨し、マナの呪術にとりつかれた男女らの魂からも出てきます。今日のタヒチのダンスや音楽は、抑圧に耐えてこうした生命の聖なる表現を守ってきたポリネシア文化のしなやかさをたたえています。古代、ダンスは生活のあらゆる側面に結びついていました。人は歓迎や祈りとして、あるいは威嚇や誘惑のために踊っていたのです。
とりわけ、伝統的な太鼓を豪快に打ち鳴らし、ホラ貝が寂しげに響き、人々が唱和する中で踊るダンスは、今もなおパワフルな活力の象徴です。
伝統楽器
今日の楽団では打楽器や弦楽器が使用されています。打楽器には、トエレ、ファアレテ、スティックで叩く2枚皮でできたパフ、手で叩く1枚皮でできたパフ・ツパイ・リマがあります。弦楽器にはウクレレとギターがあります。
長い間見られなかった他の楽器も徐々に復活しています。竹を割いて作った打楽器のイハラや鼻笛のヴィヴォがそうです。さらにはカタカタと音を立てる石や貝殻、ペヌ(すりこぎ)やココナッツを利用してあらゆる種類の音を鳴らします。
賛歌の中には、宗教とは無関係に日常の行事に合わせて歌われるものがありました。タパ(樹皮布)を叩いて薄く伸ばしているときの音など、人々が集まって立てる音には懐かしさが感じられます。マルケサス諸島の宗教的儀式の賛歌は、多くの場合、祭司のみが理解しており、太鼓や手拍子の伴奏が付きます。
お祭りでの賛歌は、次第にパフという太鼓の音で始まるリズムを伴奏に歌われるようになりました。現在の音楽は、ポリネシアの文化的歴史とそれほど深い関係にありません。おそらくそれは、わざわざ音楽を書き残そうとする者がいなかったことや、ヨーロッパの影響を争うことなくかなり早い段階で受け入れたからでしょう。
ヨーロッパの影響は、船乗りの世俗的な歌や音楽から始まりました。続いて、宣教師によって賛美歌や聖歌が持ち込まれました。最初のプロテスタント宣教師団が伝えた宗教的賛歌と、ヨーロッパ人が来る前に歌われていた多声のタヒチ賛歌が融合して生まれたのがヒメネです。
ヒメネの主要な形式には、ヒメネ・タラヴァ、ヒメネ・ルアウ、そしてウテがあります。最初の2つは、プロテスタントの典礼とヨーロッパ人来訪以前の時代に由来しています。一般的に、どちらの音楽表現も伝説の神、高名な首長、守護動物をたたえるものです。これらの歌はとても叙情的な詩であり、島や地域ごとに固有の解釈が存在します。
ヨーロッパの影響を受ける前のポリネシアには「数多くのさまざまなダンスがあった」(W.エリス、1831年)とされますが、それ以外にほとんどのことはわかっていません。ただ男性も女性も、時には一緒に、時には別々に、踊っていたということです。立って踊るダンスもあれば、座って踊るものもありました。ダンスには、基本的にパフ(2枚皮の太鼓)とヴィヴォ(鼻笛)という限られた楽器による伴奏が付きました。
タトゥーの場合と同様に、裸であることが下品とみなされたために、ダンスは宣教師によって禁じられました。1950年になってようやく、旅行者による口伝えや著作のおかげで、この伝統芸能がポリネシアの慣習として再発見され、復活します。
ダンスの種類
現在のタヒチのダンスは4種類あります。
その他の諸島もタヒチアンダンスの影響を大いに受けましたが、それぞれに固有のダンスも守ってきました。マルケサス諸島のバードダンス、ツアモツ諸島の「カパ」、ガンビエ諸島の「ペイ」などがそうです。
トロピカルフラワーは、タヒチ人の髪飾りをはじめ、島々のいたるところで見られます。旅人や帰ってきた家族を歓迎するためのレイは、タヒチの代表的な花「ティアレ」で作られます。風習では、男女とも、すでに決まった相手がいる場合には、左の耳の後ろにティアレを飾ることになっています。
編み細工では、帽子、バッグ、かご、敷物など、さまざまなものが作られます。オーストラル諸島出身の女性は、タコノキ、ココナッツ、葦(アエホ)の植物繊維で作る編み細工に秀でていることで知られています。
自然に対する観察眼や愛着は「ティファイファイ」という、植物やエスニックなモチーフをかたどった布を手縫いで縫い付けたぜいたくなベッドカバーにも息づいています。女性たちは、自身の創造力を示すために、このポリネシア家庭の代表的な装飾品に熱心に取り組んでおり、年1回ティファイファイの展示会が開催されるようになりました。こうした芸術性の表現は、男性ならではの木工作品にも見られます。
ポリネシア人は、古くから伝わる幾何学模様や象徴的な図柄を、心のおもむくままにトウ(ブラジルシタン)やミロ(ローズウッド)などの銘木に彫ります。木彫工芸は、マルケサス諸島の島民が秀でており、槍やパズルのほか、特別な料理に使いたくなるウメテと呼ばれる果物皿など、すぐれた工芸品が作られています。
火山岩、サンゴ、時には骨を用いて、多種多様な装飾品や、ペヌ(すりこぎ)などの実用品を作る職人もいます。特に人気の復活した真珠母貝は、貝の内側を磨くことで玉虫色に光を反射するようになります。その永遠に変わることのない魅惑的な陰影が好まれ、ダンスの衣装の装飾や宝飾品に使用されます。
タヒチのタトゥーに興味がありますか? タヒチの島々でタトゥーの文化について学んでみましょう。